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2012.03.30 Friday
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    母の記録15

    2012.03.30 Friday 09:28
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      「眠ったままの状態でも、生きていてくれさえいればいい。」


      「うん。そうだね。生きていてくれれば。」



      その日も、父と母のお見舞いに行った帰りに話していた。

      母は相変わらず眠っていて、でも私達の話しかけに答えるかの様に、指を動かしていた。



      「きっと、私達の声は届いているんだよ。」


      「また明日来よう。」



      明日は来なかった。



      入院から15日目の朝1時頃。


      ソミド〜ソミド ♪ ソミド〜ソミド ♪


      病院からの着信音であるメロディーがなる。嫌なメロディーだ。

      深い眠りについていたにもかかわらず、飛び起きる。着信音だけで起きれる位だから眠りは浅かったのかもしれない。




      その時が来てしまったんだ。




      すぐにそう悟った。

      電話にでると、案の定「危ない状態です。すぐに来てください。」と。

      父と息子を起こし、親戚に知らせる。

      いつかはこの日が来るんだと覚悟していたせいか、この時はすごく冷静でかなり頭はしっかりしていたと思う。




      病院につくと、既に親戚が集まって泣きながら母に話しかけている。

      また来るのが最後になってしまったとそんな事を思いながら病室に入る。

      お見舞いに行くといつも必ずしていた、母のモニター確認。血中酸素濃度の量、血圧、心拍数。

      先生に

      「血圧が下がったら危険だと思って下さい。」

      以前、そう言われた事を思いだす。


      母の血圧はかなり低下していた。血中酸素濃度も60に。





      あぁ、もうダメだ。





      モニターを見て、母の最期が近づいている事を強く思った。



      「お母さんの傍に!早く!」

      叔母さんにそう言われ、すぐに母の元に行く。

      母の顔を見てゾッとした。




      母だけど、母じゃない。




      うっすらと開いた片目が空をボンヤリ見つめている。



      はぁーーー はぁーーーー


      と、深くゆっくりした呼吸を繰り返している。


      まるで眠るかの様に死ぬ。


      そんな表現をよく耳にするが、母の場合そんなキレイなものじゃなく

      見ていて辛くなく様な姿だった。


      母の手を握る。



      冷たい。



      声をかける。


      「お母さん、よく頑張ったね。頑張った。今までありがとうね。」


      こうゆう時、泣き崩れたりするのかと思ったけど、私の冷静さはまだ続いていて、親戚が見守る中、これ以上何を話せばいいか分からなくて、とにかく手を握り続けた。


      「かっちゃん!かっちゃん!」

      叔母が泣き崩れる。


      父も泣いている。


      「お母さんの手がだんだん冷たくなっているよ。」


      周りの様子を冷静に観察している私



      その時、母と目が合った。



      母はもう何も見えてないと言われたが、あの時、母は私を見てその後父を見た様な気がした。


      死ぬ間際なんて、本人しか知らない。


      見えてるか見えてないかも本人しか知らない。


      でも、母はきっと声も聞こえて、目も見えていたんだと思う。


      だから今少し後悔している。あの時もっと話かけてあげればよかったと。





      母は最後の力を振り絞って、私と父を見たんだ。


      たった3人の家族で、何をするのも一緒。


      喧嘩もたくさんしたけど、仲が良くて、どこへ行くのも一緒だった。


      私は結婚して家を出てしまったけど、それでも母の癌を父と支え続けた。


      父と母と私の絆はとても強かったから、母は私と父を目に焼き付けたんだと


      そう思う。




      母の呼吸が次第に浅くなり、心臓が止まる。


      ピーーーーーーー


      先生が来て、脈と目を確認して


      「ご臨終です。」


      と、告げる。



      私は母の姿をじっと見つめた。


      誰も声を出さず、とても静かな臨終だった。





      お母さん、ありがとう。




      心の中でつぶやく。


      それからは、葬儀屋に電話をしたり

      葬儀の事を父と話したりで、バタバタして

      ゆっくり悲しんだりする事は当分なかった。




      約4年の闘病生活を終え

      母はやすらかな眠りについた


      癌とは本当に恐ろしい病で

      生きながらに地獄を味わい、そしてじわじわと死においやっていく


      母を傍で見守っていて

      その恐ろしさを知り、同時に健康であること、未来があることがどれだけすばらしいことかを知った


      だからこそ、一日一日を大切に過ごさなければいけないと思う

      親の死は子供に最後に教えること、と言われる。

      私は母の死から未来があることの大切さを教わった。


      これからはそのことを自分の子供達にも教えてあげたい。



      一日一日を大切に生きるということを





      おわり



      「母の記録」を終え、このブログ『すばらしき日々』を終わりにしたいと思います(^^)

      すごく不思議なんだけど


      母が私に教えてくれたことと、このブログのタイトルが最後に繋がった!


      何だか運命的なものを感じる(大げさ)


      約6年ぐらい?続けたこのブログを手放すのはとても寂しいけど、心機一転、新しいブログを立ち上げました。

      長い間、訪れてくれた方々(いないか)ありがとうございました!

      ★このブログはこのまま見れる様にしておきます。


      男の子2人、育ててます(^^;)←new!!是非遊びに来てください(^^)
      category:★母のこと | by:あひるcomments(0) | - | -

      母の記録14

      2012.03.27 Tuesday 00:29
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        癌性リンパ管症

        芸能人だと、忌野清志郎が亡くなった病名だ。

        簡単に説明すると、肺の中の水分を外に送り出すリンパという管が癌により塞がれてしまい、外に排出されない水がどんどん肺に溜まっていき、呼吸困難に陥る病気だ。

        癌性リンパ管症に一度なってしまうと、治る事はないという。急速に症状が悪化し、あっという間に死に至るという恐ろしい病気

        この病気にはステロイドが効くが、それは一時的なものでしかなく、効かなくなればそれでおしまい


        母は、この恐ろしい病気になってしまったのだ。
        これから回復していく、なんて希望は始めからなかった。

        発祥から半年の余命。

        今考えると、母の乾いた咳が始まったあの時から容態が悪化するまで約半年。
        もう大分前から、母の命のカウントダウンは始まっていたのだ。


        母がマンションにまだいた頃、私は赤ちゃんの為にぬいぐるみを縫っていた。
        よく母と話をしながら。

        「あんたは器用だからね。私はそーゆう細かい作業はできないわ。」

        母は私にそう言ってくれた。私はぬいぐるみが完成したら母に見せようと思っていたから、母が入院してから毎日こつこつ縫い続け

        なんとか母に見せる事ができた。
        入院している母に息子の写真と共に持って行くと

        「かわいいねぇ。」
        ととても喜んでくれた。

        病院の食事はほとんど食べられなくて、唯一アイスクリームとゼリーだけは口に入れる事ができたので、私は毎日母の元へ食べさせにいった。

        自分で食べる事もできず、食べさせようと酸素マスクを外すと、血中酸素濃度がすぐに下がってしまう。
        歩く事もできず、たくさんの管に繋がれた母。

        「赤ちゃんもうじきだから、頑張ってよ。」

        そう言うと、いつもなら頑張ると言っていた母だったが、何も言ってくれなかった。



        苦しみが日に日に増していく。

        たわいない会話ができなくなっていった。



        苦しくて毎晩眠れず、苛立ちがつのり、言ってる事が分からなくなっていく。



        そしてモルヒネを使う事になる。



        「廊下に、あんた達がいてずっと何か話してるの。」

        母が変な夢を見出す。

        「女の子がずっと追いかけてくる。」

        不気味な、何かを暗示しているかのような夢。




        入院から何日目だったか、ついに母の気持ちが折れた。

        「もう嫌だ。早くおばあちゃん迎えに来て!!」

        酸素マスクを外してしまったり、お見舞いに来た者に当たり散らす。




        薬の量を増やす。

        会話が全くできなくなった。



        眠っている母の姿を見に、毎日病院へ行く。

        お見舞いに行く時間は薬の量を減らしてもらい、会話ができるようにしてもらったが、母が目を覚ます事はなかった。


        意識レベルの低下。

        もう薬をほとんど入れなくても母は眠った状態になってしまっていた。


        穏やかに眠った母の姿を見に行くのは

        思っていた以上に辛かった。

        意識はなくても、まだ生きていてくれる、父はそれでいいと言っていたが

        毎日、目覚める事のない母に話しかけるのは

        辛かった。






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        母の記録13

        2012.03.26 Monday 23:53
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          すぐに支度をして病院へ向かった。
          病室には既に親戚が集まっていて、みんなで母を元気付けていた。

          母の容態は悪く、血中酸素濃度が70まで下がってしまっていた。(正常値は98〜100)
          酸素を最大の10入れても血中酸素濃度が上がらない為、このままだと呼吸困難で危ないという事で呼ばれたのだ。

          母はまだ意識があったが、相当苦しそうで
          「苦しい。苦しい。」
          と常に叫んでいた。

          みんなが涙ながらに「頑張って」とか「足をもんであげようか?」とか
          母を労っていて
          そんな姿を見ていたら、不思議と冷静になっていく私が居て
          みんなにこんなによくしてもらえて、母は幸せだなぁとボンヤリ思った。

          「今晩が山です。かなり苦しいと思うので、睡眠剤を使います。その場合もう話ができるのは今だけかと。」

          眠りながら、逝ってしまうということか。
          母ともっと話したかったが、「苦しい」と言い続けている母と話す事なんてできず
          とにかく今は母の苦しみをとってあげることが先決だったので

          「お願いします。」

          そう決断した。

          薬を入れると、母はすぐに眠りにつき話をする事はできなくなった。
          母の傍についていたかったが、息子もいたし妊娠中だったので駆けつけてくれた旦那と共に私はマンションに帰った。

          もしかしたら、これで生きている母と会うのは最期かもしれない。そう思いつつ。

          だけど父だけは母の傍に残った。
          頑固で、強い父が泣いていた。

          高齢だし、マンションに戻ったほうがいいと周りは言ったが

          父は残ると言い張った。

          そんな父の姿がすごく印象的だ。
          普段はあまり感じた事はなかったけど、父と母の絆は強かったんだな。

          眠れぬ夜を過ごし

          翌日、親戚から母の容態が回復しているとの連絡がきた。
          朝一番で様子を見に病院へ行ってくれたのだ。

          良かった。

          心からそう思った。

          病院に行くと、母は目覚めていた。
          少し苦しそうだったが、話す事ができた。

          先生からステロイドが効いたと伝えられた。呼吸も以前よりは安定しているし、血中酸素濃度は92〜95ぐらいをフラフラしていた。

          「お母さん、良かったね。薬が効いたんだよ。」

          「でもまだ苦しいね。」

          かすれた声でそうつぶやく母。でも、こうしてまた母と言葉を交わす事ができたのだ。

          私は、保育園に行った息子の事やお腹の赤ちゃんの事など、病気とは関係ない話をして一時家に戻った。
          母はこれから回復していくと信じて。

          しかし、その考えは甘かった。
          癌性リンパ管症という病気の本当の恐ろしさを知らなかった。
          もしもその病気をネットで詳しく調べていたら、母がこれからどうなるかをあらかじめ予想しもっと、もっと深い話をする事ができたのに。

          その時は、そのステロイドという薬で完治するのだと信じきっていたから。

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          母の記録12

          2012.03.21 Wednesday 14:39
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            JUGEMテーマ:家庭


            母の咳が、一晩中続いた。

            痰がからむ、酷い咳だった。

            息子が少し咳をしていたので

            母にうつってしまい肺炎になったんじゃないか?

            肺にがんがある母にとって、肺炎になるのは命とり。そのことが心配で眠れなかった。

            翌日、母の顔は血の気のない真っ青な顔になっていた。息も苦しそうでフラフラしている。

            朝食を作っていた私はその姿を見るなり

            「お母さん、救急車呼ぼうか?」

            母は力なく頷いた。

            父はどうしてよいか分からない様子でオロオロしていた。

            救急車を呼ぶと、10分程で到着。母は何とか自分の足で玄関まででてきたが、救急隊がその姿を見るなり

            「歩かせないで!すぐに担架で運びます」

            母の容態は私達が思っていた以上に悪かったのだ。

            父と私そして息子も救急車に乗り今までかかっていた病院へと向かった。


            日曜日だったので、病院はとても静かだった。
            私達の様に救急車で運ばれて来た急患の家族が数人椅子に座っている。

            母はすぐさま診察室に運ばれ、私達は他の家族同様椅子に座ってただ待つ事しかできなかった。

            待っている間に母の妹である叔母に電話をかける。
            叔母は大急ぎで病院にかけつけてくれた。

            「かっちゃんどうなの!?」
            今にも泣きそうな顔で病院に着いた叔母。

            「今検査中。咳が酷くて。もしかしたら肺炎かもしれない。」

            暫く叔母と話していると、母が別の検査の為病室から運ばれていった。それと同時に先生に呼ばれる。

            今までの主治医ではなく、若くてちょっと冷たそうな先生。

            「CTの結果、肝臓の癌がかなり大きくなっています。でも今問題なのは肺です。」

            「肺炎ですか!?」

            「肺炎の可能性もありますが、癌性リンパ管症かもしれません。これから肺炎の薬を使いますが、それでよくならなければ、癌性リンパ管症の可能性が高くなります。」

            その時は肺炎のことばかり頭にあった為、肺炎の治療をしてもらえれば母はまた良くなると信じていた。だから入院する事ができて、肺炎の治療もしてもらえると思うと少しホッとしていた。

            それは私だけでなく、父も叔母も入院=病院で何らかの治療を受けられる

            ということでみんなホッとしていたのだ。

            「良かった。またよくなればクリニックの治療も受ける事ができるし。」

            「肝臓癌がかなり大きくなってるって。」

            「早く抗がん剤で抑えないと。」

            入院の手続きをし、その日はマンションに帰った。



            しかし、母の咳は肺炎ではなかった。




            翌日の早朝、病院から電話がかかってくる。

            「先生からお話があるので、午前中病院に来てください。」

            もともと病院に行く予定だったが、こんな早く病院の方から連絡がくるなんて思わなかったので急に不安になる。

            私達は朝食も食べず、急いで病院に向かう。

            入院病棟の談話室に通され、先生を待った。

            何を言われるのか?

            父と私は一言も言葉を交わさなかった。

            そして昨日の冷たい感じの先生が談話室に入ってくるなり

            「肺炎の薬を使いましたが、容態は全く変わりません。肺炎ではなく癌性リンパ管症の可能性が出てきました。癌性リンパ干渉にはステロイドという薬が効きます。しかしもし癌性リンパ干渉でないと、呼吸困難になる可能性が出てきます。使ってみますか?」

            母の今の状態は薬を使ってみないとわからないという。

            私達は「そのままにはできないので使ってください」と言った。

            「今の主治医から余命にについてはお話がありましたか?」

            「いえ、いい方向に向かっているとしか。」

            「そうですか。お母さんの容態はかなり危険な状態です。できれば今日親族の方や親しかった方を呼んでください。」


            は?


            先生の言っている意味が分からなかった。

            親族や親しい方って。

            ドラマの様な展開にショックを受けるというより唖然としてしまった。

            現実味を帯びてなくて、それからは先生の話をウワの空で聞いていた気がする。


            母の様子を見に行ったが、酸素吸入をしているが今のところスヤスヤと眠っていたので母が危ないとは思えなかった。でも、とりあえず叔母に電話し、親戚にもお見舞いに来てもらうことになった。

            「大丈夫だよ。そのステロイドって薬で良くなるよ。」

            叔母にそう言われ、誰もが母の様子を見てきっと良くなると信じていた。

            地に足がついてないようにボンヤリしながらマンションに戻り、父と息子のご飯を作りとその日はいつも通りの日常を過ごしていた。母がいないことだけを除いて

            そして夜10時頃、再び病院から電話がくる。


            「容態が急変しました。今すぐ来てください。できれば親族の方も。」

            急に現実に戻された。

            考えないようにしていた事が、迫ってきたと感じ

            「お母さんもう駄目かも。」

            私は泣き崩れた。


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            母の記録11

            2012.03.18 Sunday 00:31
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              一時収まっていた咳が夜中になると酷くなる。

              熱もなかなか下がりづらく、解熱剤を飲むとボンヤリしてベッドから出られない日々が続いた。

              クリニックにはかろうじて毎週行く事ができていたが

              その日は朝から具合が悪そうで

              でも、クリニックに行けば少しは回復すると期待し

              母は父とクリニックへ向かった。


              私はきっと母は少し元気になって戻ってくるだろうと思っていたから母が大変なことになっているとは思いもよらなかった。

              いつもならクリニックの最寄り駅に着くと母が電話をくれるのだが、その日はこちらからかけても繋がらない。

              おかしいな?とは思ったがとりあえず連絡を待つことに。

              そして昼過ぎぐらいに着信。

              「もしもし、着いた?お昼食べてるの?」

              「それどこじゃないんだよ。お母さんが電車を降りた途端、息ができないって言って動けなくなっちゃったんだ。」

              父の話によると、電車に乗っている時はいつも通りだった母が、駅について歩き出した途端に息が苦しいと言い出しそこから一歩も歩くことができなくなったという。駅員さんが椅子を持って来てくれて、暫くそこに座っていたのだがクリニックの時間がせまっていた為、連絡したところ、スタッフが車椅子で母を迎えに来てくれたらしい。

              「お母さんは今治療を受けている。家に帰れるか心配だ。」



              それから2時間程して、クリニックの先生から電話がかかってきた。

              母の容態は悪く、抗がん剤は中止したという。
              息が苦しいというので、酸素吸入をしてこれから家に帰ることになった。
              だが、先生はもしも電車で容態が急変したらと思うと、家にに帰していいものか悩んでいた。

              それもその筈。クリニックから家まで2時間はかかる。

              無事帰れるか、私も心配だ。

              父に電話してその事を聞くと、母は大丈夫だと言う。とにかく家に早く帰りたがっていた。

              それからは、こまめにメールで状態を聞き、私が先生に連絡するということが続く。

              そして2時間半ぐらいたって、父と母がマンションへ戻って来た。
              母は移動用の酸素吸入をしながら。
              酷い姿だった。

              母が家に着いた事を先生に伝えると、かなりホッとした様子だった。

              その日、母は昼から何も食べず寝てしまった。



              翌日、母が何も口にしなかったのでお昼だけでも外食しようと提案し、酸素吸入をしながら父と3人でマンションからすぐ傍にあるレストランへ向かった。

              マンションからそこまでは普通に歩いて5分の場所。
              でも母は、あと少しで着くというところで立ち止まってしまった。

              「息が苦しい。」

              そう言って、次の一歩が踏み出せない。

              いったい何で苦しいのか?
              クリニックでは肺癌の進行はそんなに進んでないと言われていた。

              精神的なものからくるのでは?父も私も母の呼吸困難はそんな風にしか考えられなかった。

              そして何とかレストランに着く事ができ、私達は昼食をとることができた。
              しかし母はでてきたものをほとんど食べる事ができなかった。

              昼食を終え、再び5分のマンションまで30分程かけて帰ると、母はすぐに寝てしまった。


              「このままマンションで生活していたら、お母さんの体がもたない。癌の進行より栄養失調で死んでしまう。」

              父と私は以前の主治医に相談して、母を入院させてもらおうという結論に達した。

              翌日は日曜日。月曜になったら病院に電話し、母を連れて行こうとしていたのだが

              母は翌日救急車で運ばれることになる。
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              母の記録10

              2012.03.15 Thursday 16:37
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                9月になり、私は里帰り出産の為実家に戻った。

                といっても生まれ育った我が家ではなく、急遽借りたマンスリーマンションへ。

                母の足が浮腫みだし、我が家の98段の階段を上り下りするのが難しくなってしまった為、駅から近いマンスリーマンションから通院することになったのだ。

                それに私も臨月が近くて階段はちとつらかったので。


                久しぶりに会った母は、以前よりもかなり痩せていて驚いた。

                肉がなく、骨に皮がはりついているといった感じだ。がんになる前の丸々と太っていた母の面影は全くなかった。

                体はガリガリなのに、足だけが異様に張れていて、足だけは細かった母の体系が全く逆になっていた。

                食欲がなく、朝はパンをなんとか食べ、昼は私が作ったうどんを3分の1ぐらいしか食べない。夜はおかずを少し食べるぐらい。

                「そんなことじゃどんどん痩せちゃうよ。食べなきゃだめ!」

                毎日食事の時間は母を叱っていた。

                今はそのことをすごく後悔している。母は本当に食べれなかったんだ。あの時、あんなに怒らないで、食べれない母を労ってあげればよかったと。

                でもその時は、生きてもらいたいから、がんと闘ってもらいたいから、弱気になり始めていた母を叱って奮い立たせたかったんだ。

                せっかく賑やかな場所にマンションを借りたんだから、外食にも誘った。
                9月の2週目ぐらいまでは、まだなんとか動く事ができ、何回か外食に行ったり、赤ちゃん用品を買いに行ったりした。ただ、毎日飲んでいる解熱鎮痛剤のせいで、意識がボンヤリしている様だったが。

                母とは色々話しをした。

                誰かの噂話だったり、赤ちゃんのこと、上の子のこと。

                もしも、の時のことやがんの事はほとんど話さなかった。

                ただ、今まで通りたわいない話をしたかった。

                9月の半ば、一度実家に戻った。
                母も私も移動するのは辛かったが、私は実家に送った赤ちゃん用品を取りに行かなければならなかったし、母は秋、冬物の洋服を取りに行くため。

                「お父さんの冬物も持ってこなきゃ。お父さんは自分じゃ何にも分からないから。私が死んだらどうするのかしら?」

                私は何も言わなかった。

                2泊3日で実家に戻ったが、母は洋服の整理をする意外はずっと寝たままだった。

                私も母の隣に布団をひき、息子と3人で昼寝をした。

                子供の頃はずっと隣で寝ていた母。あの時は、母がこんな状態になるとは夢にも思わなかった。ただ、親は高齢だからお別れするのは誰よりも早いんだと、漠然とした不安を抱えていたんだ。


                そして、私達は再びマンションに戻った。

                今思えば、あれが母が我が家で過ごした最期の時になってしまった。

                母の容態はそれから急激に悪くなっていったんだ。


                category:★母のこと | by:あひるcomments(0) | - | -

                母の記録9

                2012.03.09 Friday 10:54
                0
                  JUGEMテーマ:家庭


                  母が新しいクリニックで治療を受けようとしていた矢先、それを阻むかの様に、母が風邪をひき

                  発熱、咳が続き、なかなか回復する事ができなかった。

                  当時は、私の息子の風邪がうつってしまったんじゃないかと、息子を連れて実家に行った事を後悔し連れて行くべきではなかったと自分を責めたが

                  今考えると、あれは母が亡くなった直接の原因の始まりだったのかもしれない。

                  母の体調は

                  朝は平熱なのだが、午後になると微熱になり、夜は38℃まで上がってしまう。

                  そして、尋常じゃない咳。

                  四六時中、コンコンと乾いた咳をし、話をするのも大変な程。

                  新しいクリニックの主治医にその事を話し、治療を始めるのを少し遅らせしばらく様子をみることに。

                  しかし、いつまでたっても同じ状態が続くので

                  主治医から

                  「熱は癌によるものかもしれない。体調のいい午前中に一度クリニックにいらっしゃい」

                  と言われ、母はようやくクリニックに行ける事になった。

                  そしてクリニックで肺のレントゲンを取り、血液検査などした結果

                  やはり熱は癌によるもので、心配していた肺の方は特に動きがないということ。咳はやはり風邪からくるものだったみたいでホッとした。

                  なので翌週から抗がん剤治療も始められることになり、一安心。

                  しかし、母は熱が出ると何もできなくなってしまう為、それがかなりネックに。

                  解熱鎮痛剤を毎日飲む事になったが、その薬はかなり強いらしく飲むと意識が少し低下してしまう。

                  そして治療が始まり、少量でも抗がん剤を入れると、多少気分が悪くなりと体調は右肩下がり。。。

                  新しい治療をうけれると喜んでいたが、またあたらしい壁にぶつかってしまった。

                  QOLが下がってしまったら、転院した意味もない。

                  私はその頃妊娠中で、上の子もいたしなかなか実家に帰る事ができなくて、母とは毎日電話で話していたが

                  日に日に弱っていく母の声に、心配で仕方がなかった。


                  主治医からは、いい方向に進んではいる、と言われていたが

                  久しぶりに実家を訪れる度、痩せていく母の姿に

                  本当にいい方向に進んでいるの?

                  と疑問を感じずにはいられなかった。


                  しかしXdayは確実に迫っていた。

                  母が亡くなる約1ヶ月は私達家族の怒濤の生活が始まる。

                  多分今まで生きていて一番濃密で、そして母と一緒の最期の私達家族だけの生活。

                  私は一生この時の事を忘れない。
                  category:★母のこと | by:あひるcomments(0) | - | -

                  母の記録8

                  2012.03.09 Friday 10:32
                  0
                    JUGEMテーマ:家庭


                    主治医にセカンドオピニオンの事を話し、必要な書類を準備し友人に紹介されたクリニックへ向かった私達。

                    藁にも縋る、とはまさにこの事だなぁと感じた。

                    もう母にはそのクリニックしかなかったから。

                    結論から言うと、私達はそのクリニックに転院する事を決めた。

                    今まで通っていた総合病院とは違ってクリニックだから入院設備もないし、家からもかなり遠い。
                    でも、今までの主治医と違って、そのクリニックのの院長先生は

                    まだがんと共存する余地がある

                    一緒に頑張りましょう

                    と、私達に希望を与えてくれたから。その時の私達には、治る治らないとかそういう事よりも、励ましてくれる、いたわってくれる言葉が必要だったんだと思う。

                    ただ、転院するにはひとつ条件があって(それが結構大問題)

                    何かあった時に診てもらえる病院を必ずバックにつけておくこと。要はそこのクリニックでは癌の治療しか行えない。それはそのクリニックに入院する設備がないこと、家からの距離が遠すぎる為、治療の途中で何かトラブルがあった時、救急車でたらい回しにされてしまう可能性があるから、とのこと。

                    まぁ、はたから聞けば治療はしますが何かあってもうちは責任持ちません、みたいな感じでちょっと「え?」って思っちゃうけど、それは仕方ないんだと思う。

                    でも現実問題、治療は別の病院でやるけれど何かあった時に診てくれるってそんな都合のいい病院はなかなかなく、そこがネックでクリニックに転院できないという患者さんは多いとか。

                    そりゃ命が関わっているんだから、急に診てくださいって言って診てくれる医者なんていないだろう。。。

                    少し希望の光が見えたのに、またしても問題を抱えた私達。

                    ▽▽▽

                    その後、私は家の近くの病院にかたっぱしから電話をかけ、何かあった時診てもらえないかと問い合わせたが

                    案の定

                    「うちは紹介状がなければ駄目です。今の主治医と相談してください。」

                    と門前払い。

                    分かってはいたけどさ、結構対応冷たいんだ。こっちは生きる為に必死なのに、どの病院も「は?あんた何言ってんんの?」って感じ。

                    流石に電話かけてて涙出たよ。

                    でも、これはやっぱり母の人徳なのかな?

                    数日後、セカンドオピニオンの事を今の主治医に伝えに行った時、駄目もとでその事を主治医に話したんだ。

                    要は転院はするが、具合が悪くなったらみてくれ

                    という事を。そんな虫のいい話、今の主治医がうんと言ってくれる訳ないだろうと思っていたんだけど、意外にもあっさり

                    「いいよ。でもその時ベッドが空いてなかったら厳しいけど。確約はできないけれど、診てあげる」って。

                    本当に有り難かった。

                    でも、厳しい事も言われた。それは今の医療、病院の限界について。それは

                    まず転院先の治療方法。

                    今までは、抗がん剤を各クールごとにがっつり入れて、がんを攻撃していったのだが、転院先では母の癌に効くだろう抗がん剤を色々組み合わせ、少ない量を毎週入れるというもの。副作用も少なく、QOLも保つ事ができ癌と癌と共存して延命させることを目標とするんだが

                    それに対して主治医は

                    癌はそんな治療で押さえられう程甘くない。ハッキリ言って気休め程度。
                    治療を頑張るのはいいが、それよりも近い将来の事をしっかり考えなさい、と。

                    今病院は圧倒的にベッド数が足りなくて、もしもの時に入院できるとは限らない。これから先、寝たきりになるだろうし、ホスピスの準備をするなり、在宅なら往診してくれる医者を探すなり、自分の最期をどうするかを考えなさいと。

                    まだ元気は母にこれは結構きつい言葉だった。

                    その時は、あんな酷い事言わなくてもいいじゃないかと、母と二人主治医を恨んだが、今考えると医師は今のがん患者の現状を知っていたからこそ、夢見る私達にしっかり忠告してくれたんだ、と思う。

                    医師が言うには

                    癌の進行が進み、体が弱り介護や緩和が必要な時は病院がいっぱいで診てもらえないケースが多いという。
                    ホスピスも患者数に対して圧倒的に少なく、入りたいときは3ヶ月待ちとかで入れないまま亡くなってしまう人もいる。救急車で病院に搬送するも、今までかかっていた病院はいっぱいで、たらい回しになるという事もあり、知らない病院では今まで受けていた患者の治療履歴が乏しく、今後の治療方法を決定しづらいらしい。

                    今では本当に医師の言う通りだったな、と思うが当時はそんな言葉は聞きたくなかった。

                    母もかなり落ち込んでしまったし•••。

                    そして母は、クリニックに転院することになり

                    緊急時は今までの主治医に診てもらうという新しい体制になった。
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                    母の記録7

                    2012.01.17 Tuesday 19:55
                    0
                      ついに医師から治療方法がないことを告げられた。

                      薬が効かなくなってもまだ次があった時はどんなに心強かったことか…。

                      母は勿論、父も私も言葉の発し方を忘れてしまったみたいにただ医師がカチャカチャ動かしているパソコンの画面を見つめていた。

                      何か…何か他の手を

                      何か次に繋げなければと

                      質問を考えるんだけど、頭の中は絶望が支配していて

                      考えても考えても何も浮かばない。

                      「一応、飲み薬もありますが、飲んでみますか?」

                      気休め程度といった言い方で腹が立ったが、何もしないでこのまま死を待つだけなんて出来ないから飲むことにした。

                      父はまだ希望を捨ててなくて、飲み薬でも効くかもしれないと言っていたが

                      母も私も前向きにはなれなかった。

                      でもその時、私の頭には希望を繋ぐ為のある考えが浮かんでいた。

                      それは、セカンドオピニオン。

                      昨年、大学時代の先輩の結婚式に出席した時、久しぶりにたくさんの友人に会う機会があって

                      そこで母を亡くしたという友達と話すことが出来た。

                      彼女の母も大腸がんで色々な治療方法を試したという。

                      その時の話を思い出し、私は母を彼女の母親がかかっていた医師に診てもらいたいと思った。

                      もう何もしてくれない今の主治医より、可能性を見出だしてくれる医師に変えた方がいい。

                      もうセカンドオピニオンをして転院させる気満々だった。



                      夜、父と母にそのことを伝えてみたが二人共乗り気じゃなかった。特に父は反対だった。

                      「今の病院には戻れなくなるんだ。そんな事はしない方がいい。」

                      「とりあえずセカンドオピニオンだけでもしよう。他の病院で意見を聞いてそれでもダメならそのまま今の病院にいればいいし。」

                      「そんな事したら今の医師が嫌がるだろ。」

                      母がかかっていた病院は母が昔からの馴染みの病院で家からも近い。しかし私が勧める病院は電車で一時間半もかかる場所にあった。

                      父は何かあった時に直ぐに診てもらえる病院と手が切れてしまう事を凄く恐れていたのだ。

                      「でもこのままじゃ死ぬのを待つだけじゃない!?」

                      「まだ飲み薬がある。」

                      「気休めだよ!!」


                      暫くはこんな言い合いが続き、2ヶ月ぐらい飲み薬を続け、検査結果が良くないことを知らされた日

                      母はセカンドオピニオンをすることを決意する。
                      category:★母のこと | by:あひるcomments(0) | - | -

                      母の記録6

                      2011.12.31 Saturday 00:11
                      0
                        「肝臓のがんが動き出したって。」

                        浮かない顔をして病院から戻った母の第一声。そして

                        「腫瘍マーカーが上がった。肺にも転移しているみたい。」



                        言葉が出なかった。

                        一年間抗がん剤を中止していて、こんなにも悪化していたなんて。

                        やっぱりどんなことをしてでも抗がん剤を続けていれば良かったんじゃないか!?

                        とその時は医師を恨んだ。

                        でも今考えると、あのまま続けても母は副作用に悩まされていただろうし、白血球が低下して他の病気にかかっていたかもしれない。

                        それに一年間、普通の生活ができたことは奇跡だったと思う。


                        「また抗がん剤が始まるのか。」

                        「頑張ろう。」

                        辛くても治ることを信じ頑張ってきた母を知っているから、そう言うのは辛かった。

                        今度は治るかもしれないという希望は持てないと、母も分かっていたようだ。


                        その間私には子供が生まれ、母はばあばになることが出来た。

                        母は孫の為にも頑張らなきゃと自らを奮い起たせ、抗がん剤治療を始めた。

                        しかし副作用は以前より強くかなり辛いものだった。
                        脱毛から始まり、手足のしびれ、口内炎。

                        そして特に母を悩ましたのが、爪の変形や指の腫れだった。旗から観ても酷いもので、手足の全ての指が紫色に腫れて膿む。

                        家事が出来ないことに相当ストレスを溜めていたみたいだった。

                        「もうウンザリ!!もう嫌だ!!」

                        母の心が折れることが増えた。

                        父にもかなり当たっていたようだった。



                        絶対に治らない上に地獄の様なつらいことをしなければいけない

                        そんな状況で人間まともでいられるだろうか?

                        母は本当に頑張ったと思う。



                        そして息子が一歳を迎え、手術から3年がだった頃

                        ついに医師から耳を塞ぎたくなる様な宣告をされた。



                        「抗がん剤を使いきりました。あとはご自宅で療養されてはどうですか?」
                        category:★母のこと | by:あひるcomments(0) | - | -

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